かぼちゃほろほろ

フィクションを書きます

いつかの、(幻肢)

一章

 

 

 この街の冬はちっとも優しくない。誰かの作った物差しによればだいたい北緯三九度に位置するのだと、地球儀を見て知った。日が出ていようが出ていまいが氷点下のままだし、手袋が無ければ外に出る気さえ起きない。そのくせ夏はジメジメとしていやに暑い。冬が寒いんだったら、せめて夏は涼しくあってくれ。

 

 春が来るまでまだずいぶんある。この街ではいわゆる別れの季節に桜は咲かない。日本の北部に位置するこの地域に、桜前線はなかなかやって来ない。雪が溶けてから約一月、それくらい。だからわたしは、文字通り温室育ちのマジョリティが歌う、桜をモチーフにした歌へと思いを重ねることができない。

 

 冬は雪。春は桜。都心ではろくに雪も降らないくせに、よく言ったものだ。この国では美しい四季が特色としてよく挙げられるらしいけど、地球儀を見ればすぐに分かる。似たような気候の地域が世界に沢山あること。結局はアイデンティティなんて曖昧なものだよ。わたしがその話をすると父は言った。でもそれがもう確かめようのないことを、わたしは知っている。

 

 

 

 この国が「閉じて」しまってから、だいたい六十年が過ぎた。日本は他国との国交を断絶し、在留外国人は帰化による外国籍の放棄または母国への送還が行われた。つまり今現在、日本国内には「日本人」のみが在住していることになる。この動きが起こったのは日本だけではなかったみたいだ。ヨーロッパ連合は二〇二〇年二月初めのイギリスの離脱をきっかけに崩壊し、それぞれがそれぞれに歪な殻を造り閉じ籠もった。

 

 その時の文献はインターネットにいくらでも転がっている。といっても、国外のサイトは閲覧不可、ということになっているから、専ら情報源になるのは邦人が邦人のために書いた記事ばかりだった。

 表立った言論統制は行われていないので、当時から「鎖国」に反対する勢力が存在していたことは分かっている。一応民主主義の形を取ってその決定は行われた。

 

 当時の大人たちは独裁を嫌った。一人に盲目的な形で縋り付く全体主義の脆さを、全盛期に思い知っていたから。まるでブロックチェーンみたいに大人たちは団結して、大きな壁を作ったのだった。 

 

 

 そうして世界をめちゃくちゃにした後、大人たちはみんないなくなった。

 

 

 父親は賢い人だった。物心がついたころから、父はこの世界の形をわたしに教えようとしていた。夜、わたしが床につくと、父は同じ布団に入り話を始めた。あるときは昔に書かれた絵本を使って、またあるときは寓話の形を取って。当時のわたしにそのぜんぶを理解するのは難しかったけれど、それで十分だった。レゴでできたでこぼこの地球儀がわたしは好きだった。

 

  八時五分前に校舎へと滑り込んだわたしは、急いだそぶりをなるべく見せないように階段を上り、音の立たないよう教室の戸を引く。わたしの席は一番廊下に近い列の前から二番目にある。  本当は窓際の席がよかった。退屈な日本史の授業中は外に意識を向けることもできるし、なにより壁際にはオイルヒーターが付いている。今日も最低気温は零度を割り込んでいて、わたしの髪とマフラーは雪で白く染まっている。  白い雪が白い空から降ってきて、白い街と白い校舎をまた白で塗り直す。色彩に乏しい、という表現を使うとき、それはもっぱら黒やグレーを指して使われるものだけど、白一色、と言う意味ではこの街も色彩に乏しい。そういえばチョークの粉も白いよな、雪みたいだ。 

 雪に覆われた校舎は、雪中での戦闘に向けて迷彩塗装を施された戦車のように、ひっそりと景色へ溶け込んでいる。わたしは濃紺の制服を着ている。

 

 今日が最後の登校日、と決めている。もうこの高校の門を潜るつもりはない。制服も校則も先生も友達も、全部が最後。グッバイ青春。といっても、振り返るような青春なんてろくに無かったけど。

 

 わたしはからだの周りに、半径二五〇センチの薄い膜を張って生きている。きっと他のみんなもそうなのだろう。その中は様々な液体で満たされている。ミルクセーキとか、アルプスの雪解け水とか、スッポンの生き血とか。組成はまだ分からないけど、わたしの膜を満たす液体は限りなく透明に近くて、でもその膜を通して見る世界はどこかぼやけて見えるのだった。  この膜がある限り、わたしは誰にも心を開かない。開くことはできないのだ。他人がどうやって生きているのかはよく分からないが、わたしはそのつもりで生きている。

 

 学校は正直、息苦しかった。青春を描いた小説やアニメの中に現れるような陰鬱とした主人公、彼らに想いを重ねてみることもあった。小さなハコに詰め込まれて、「わたしのため」ではない教育を押し付けて、それでいてどこか楽観的な、そういう空気が好きではなかった。閉鎖的な空気はどこか当時の日本、いや、世界のあり方と似ていた。何も閉じられてはいないはずなのに、どこへも行けないような。そんな桎梏から逃れる術を、わたしは持たなかった。

 だからわたしは、部屋に閉じ籠もることを選んだ。わたしという存在を、わたしの心の中から消すために。  残念ながらわたしには、自死を選ぶほどの覚悟も勇気も弱さもなかった。わたしにとって百年を越えるほどの寿命はあまりにも長く、与えられた時間を檻の中で過ごすのは永遠に続く命を神か悪魔から授かったにも等しかった。  もし心を永遠に壊すことができたならば、永遠の命もわたしにとっては永遠ではなくなる。たとえ残りの八十数年を精神病棟の中で過ごすことになったとしても、そんなのわたしの知ったこっちゃない。わたしという自我が失われた身体は、もうわたしのものではない。

 

 

 誰にも告げず、わたしはそれを実行に移した。放課後、宅配便がたくさんの荷物を運んでくる。ひとまずしばらくの間餓死せずに済むだけの食糧を確保して、家の扉を閉じる。  
 別に孤独だとか、そういうわけではなかった。確かに両親とは離ればなれになっていたけれど、友達はいたし、先生ともそこそこ上手くやっているつもりだった。ただ、あの閉塞感に耐えられなかった。みんな分かっているはずなのに。この国には未来がないってこと。  鎖国をしてからこの国には第三次ベビーブームが訪れた。観光業によって得られる収入が減り、産業は変化を余儀なくされたけど、観光施設の修復や美化に使われるはずだった税収は福祉や教育に注がれた。その結果人口は回復し、今は一億一千万人くらいに落ち着いているらしい。

 

 少子高齢化は確かに改善されたけど、増えた子どもたちはこの国の未来に夢なんて見ない。背中ににじり寄る死の匂いに気付いているからだ。それはきっと先天的に備わった生存本能のようなもので、停滞したこの社会の有り様に崩壊の兆しを感じ取っているのかもしれない。淀みに浮かぶうたかたは、久しく留まるべきではないのだ。

 

 わたしが立てこもりを決意したのは、わたしが生まれ落ち生きるこの世界への、せめてもの抵抗だった。国家はそれぞれ外交手段を放り投げ、内憂外患を打破するため門を閉ざした。それなら、わたしが外界との接続を絶つことに何の問題があるだろう?  わたしだって沢山の問題を抱えている。身長は相変わらず小さいままだし、物理の公式はいつまで経っても覚えられない。ドップラー効果なんてどうして勉強しなくちゃいけないんだ?わたしにはもっと学びたいことがある。学校で教わらない歴史のこと。今まで一度も母語として誰かが話すのを聴いたことのない、英語や中国語、あるいはもっと話者の少ない言語のこと。アイヌ語でもいい。学校で教わることを軽んじるつもりはないんだけど、他にも学びたいことが多すぎる。  わたしは学問の横への広がりを父から教わることができた分、同級生たちよりは幸運なんだと思う。もしそれを知らないままだったとしたら、閉ざされたこの国で大海を知ることなく生涯を終えることになったはずだから。

 

 大人は嫌い。自分勝手に塀を立てるから。硬質化した思考で、身の回りのあれこれをセメントで固めはじめる。あの子は言葉遣いがきれいじゃないから、あんまり遊ばないほうがいいよ。右折するときに方向指示器を出さない人間なんて、事故を起こして当然だ。カタカナ語を使うのは、先祖が外人の証拠だ。そうやってコレクションした偏見の上に、思考を積み重ねる。大人になると、壁になるんだ。わたしの自由な思考を邪魔する壁。世界のほんとうの姿を隠す壁。

 

 生物学的な区分とは全く別のところで、わたしたちは制約を受けている。どこかへ行ってしまいたいと思っても、この国を出ることさえ許されない。わたしの知らないうちにわたしの可能性がどんどんと失われていくのだと思うと、この世界がたまらなく恐ろしいものに思えて仕方がなかった。

 

 まずひと月、カーテンを開けずに過ごした。学校からの電話は入学当初から着信拒否設定になっている。両親からはなんの連絡もなかった。一日のうち約半分をベッドの上で消費して、残りはほとんど本を読み漁ることに使った。窓の外で白鳥の鳴き声が聞こえた。シベリアから越冬のため、この街にある池を目指し渡ってくるのだ。ふと窓へと顔を向ける。カーテンからは柔らかい光が漏れていた。もう昼になってたんだ。

 

 かくして私は窓ガラスに触れた。結露した水滴が窓枠へとこぼれ落ちた。冷たい。指先に感じた温度は、私にとって心地の良いものではなかった。この部屋は完全に閉じられてなどいない。この冷たさがその証拠だった。

 

 わたしは寒気を覚えた。わたしはきっと、この世界と完全に断絶することなどできない。外の世界と繋がっていなければ、わたしは呼吸を続けることすらできないのだ。わたしが食らった食物も水もぜんぶぜんぶ、わたしの外側からやってきたものだった。たとえアメリカ映画で見たような戸建て付きのシェルターに閉じ籠もったとしても、『現時点で』『生きるために』外部との接触(たとえそれが人とのつながりを排除したものだとしても)を断ち切ることはできない。

 

 部屋の扉を開ける。郵便受けには水道の明細とピザ屋のチラシと市議会便りが窮屈に詰め込まれていた。靴を履くのも一ヶ月ぶりだった。外へ出ると、白い息が口元から溢れた。あまりの明るさに少しだけ眩暈がした。わたしは今までずっとトンネルの中にいて、突然外へと放り出されたような。わたしはまだ、『残念ながら』この世界から見放されてはいなかった。

 

 

 たったひと月の立てこもりを経て、わたしは当然のように高校へ通うことにした。教師からは何も言われない。それから一週間後、郵便受けの底に留年の通知書がそっと寝そべっているのを発見した。わたしの青春は、どうやらもう一年延長されることになったらしい。