かぼちゃほろほろ

フィクションを書きます

いつかの、(春に)

四章

 


 春の泊。桜はまだつぼんだまま、人々の期待をシャワーみたいに浴びせられている。海良さんは三年生になり、わたしは変わらず同じ教室へ登校する。新入生たちとは付かず離れずの距離を保ちつつ、昼休みは屋上へと向かう。海良さんは大抵、アルカイック・スマイルを浮かべながらわたしを待っている。海良さんは四月一日生まれだったらしく、一日早く生まれただけで(そしてわたしの留年のせいで)二つも学年が違うのは不思議だなあ、とわたしは思った。
 
「お弁当、毎日手作りしてるんだ」
「暇なので」
「偉いね」


 白米、卵焼き、もやしのナムル(韓国の料理らしい)、それと梅干し。野菜を摂りなさい、と栄養士が口を酸っぱくして言いそうなのは分かっているけれど、しかし野菜は高い。わたしが生まれてから、ほとんどの野菜は気軽に消費できるような値段をしていなかった。理由はもちろん××××。


「ねえ、高校は楽しい」
「楽しくないです」
「じゃあどうして、あなたはここにいるの」
「……早送りするためです」
「早送り」


 弁当が不味い。どうせわたしがわたしのために作った弁当だ、どれだけ酷評しようとも構わない。実際のところ、味は別に悪くない。不味くなったのは話題を振った海良さんのせいだ。


「……慣性ですよ。レールに乗って、降りるのが面倒になったから。少しでも列車が速く進むように、『早く進んでいると思えるように』、それについては考えずに過ごしてるんです」
「でもあなたは、そのことに自覚的でいる」


 わたしはそれに答えなかった。全部分かっているから。海良さんはおそらく、そのことすらも理解した上で、わたしの傷を抉っている。わたしは梅干しを口に入れた。


「海良さんは高校、楽しいですか」
「それなりに」
「わたしは教室にいると、息が詰まりそうになるんです」


 酸素欠乏症。二酸化炭素中毒。金魚鉢に飼われたわたしたち。エアポンプなしで、カルキの効いた水の中を泳ぐ。三分の二が森林に覆われるこの国で、残りの三分の一に押し込められたわたしたち。せめて人のいない場所へ、わたし以外の目玉がない場所へ。


「今時、全体主義なんて流行らないよ。どれだけ勢力を拡大しようとしたって、この国の外側には出て行けないんだから」


 海良さんは笑った。アルカイック・スマイルを浮かべていた、その口元を緩めて。


 海良さんはこの国の歴史に詳しかった。それはつまり、この世界の輪郭を、わたしよりはっきりと捉えている、ということ。めちゃめちゃに歪んだ鳥籠。誰がこんなことにしたのか、どうして歪められなければならなかったのか。海良さんがそれらを知るようになった経緯も、そうしてどこへ行き着いたのかも、わたしには推し量ることしかできない。
 勝者の歴史。歴史はいつだって、記述者の主観が入り交じる。事実を取捨選択して、語るに値しない真実は記録に残らない。敗者の歴史は偽物。ベルベット生地のカバーで覆われたピアノみたいに、暗闇の中で、光が当たるのを待つだけ。もしそれが本当だとしたならば、この半世紀の歴史は、いったい誰によって語られたというのだろう?


 
 下校時刻、校舎から生徒が吐き出される。わたしとて例外ではなく、部室棟の橫をすり抜け、なるべく同級生に見つからないよう(まさしく幽霊みたいに)気配を消して駐輪場へ辿り着く。わたしが居を構えるアパートは街の中心部からやや東、高校のほぼ南東に位置する。


「やあ、待ってたよ」


 海良さん。ある日、わたしが自転車を破壊した旨を告げると、さらりとこう言った。


「乗せてあげようか」


 わたしはやや迷ったのち、その提案を受け入れた。迷った理由は、怖いから。交通規則で禁止されているし、なにより事故の危険性がある。当然、危険性があるから禁止されているに決まっているんだけど。提案に乗った理由は、背徳感。誰かと二人で自転車に乗るだけで、悪いことをした気分になれるなんて、わたしには十分過ぎるほど魅力的だった。この世界へのちっぽけな復讐。お手軽な反逆。十年後のわたしが思い出したら、きっと鼻で笑うだろう。でもわたしはそれでよかった。身体を傷つける勇気もなく、心を傷付けることに失敗したわたしが、わたしの形を保つためには、逸脱が必要だった。日常から、安定から、正解から。


「バス代が浮いて助かってますよ」


 そう言って今日もわたしは荷台に腰を下ろす。駐輪場の片隅、卒業生たちが残した、錆び付いたスクラップの中で。

 


 日差しは熱をもたらすけれど、風を切るわたしたちの体感温度はずっと低い。会話をする余裕もなく、わたしは落ちないようバランスを取るのに精一杯だった。交差点。わたしは荷台から降りて海良さんの傍らに立った。


「ん、別に降りなくたっていいのに」
「人通りも多いし危ないですよ」
「危ないから、乗ることにしたんじゃないの」


 信号が青に変わる。海良さんは自転車を降りる。ちょうど自転車を二人で挟むような格好になった。そのまま、海良さんは自転車を押し始めた。


「裏町通りまで行ったら、また乗せてあげるよ」


 裏町通りは川沿いにある。橋を渡る手前までが表町で、橋を渡ると裏町。なんでもこの川は、安土桃山時代、町の中心にお城があった頃、天然のお堀として使用されていたらしい。裏町通りの名称も、当時に城下町として栄えた名残だそうだ。
 川沿いには梅の木が並んでいる。桜並木よりも珍しい景色。梅はその別名を好文木と言う。学問に親しめば花が開き、止めると萎んだ、という晋の武帝の故事にちなんで、江戸時代に入ってから藩主が植えさせたものらしい。


 水面が陽光を受けてきらめいている。わたしは目を細めた。海良さんの背中からは表情は読み取れない。海良さんの髪を揺らしたのと同じ風が、わたしの髪をすり抜けていく。


「海良さん」
「なに」
「梛さんって、呼んでもいいですか」


 海良さんは前を向いたまま、自転車のギアをひとつ上げた。ペダルが重くなったのが振動で分かった。


「なんでもいいよ、別に」
「分かりました」


 梛さんが横を向いた。綺麗な形の耳だな。


「ねえ、梅は好き……」
「桜よりは」
「梅って、風待草とも言うんだって」
「風って、この風ですか」
「まあ、そんな感じ」


 そう言うと、梛さんはギアを落とした。緩やかに自転車は速度を失う。後輪ブレーキ。わたしの下で、車輪が締め付けられる。そして前輪。河川敷へ降りる石段の手前で、自転車は停まった。


「二十一世紀の初めも、二十世紀の初めも、同じ梅が咲いたんだよね」


 わたしはわずかに首を振る。


「わたしにはどうしても、そのことが信じられない」


 わたしにだって、信じられない。


「この国は断絶された。外側の世界とだけではなくて、過去とも。わたしたちはわたしたちの祖先が、国を閉じる決断をした、そのことの理由を知らない。それまで築いてきた伝統や歴史は、別種のものとして、連続性を失った」


 梛さんは梅の花びらを手に取った。七分咲きの紅梅から、風に乗って運ばれた花びら。桜よりも鮮やかな桃色は、梛さんの肌色によく馴染む。


「昔、この国が大陸と陸続きだったころ、わたしたちの祖先は狩猟民族としてこの土地にやってきた。旅をする遺伝子って、聞いたことある」
「旅をする遺伝子」
「そう。食べ物や住居を探し、人類は旅をしてきた。やがてそれは遺伝子に刻まれ、本能的な欲求として移動を指向するようになった、って話」
「初めて聞きました」
「そして移動を繰り返す限り、死は個人のものであり続ける」
「それ、どういう意味ですか……」


 梛さんは石段に腰掛けた。わたしはその斜め上、石垣の縁に腰を下ろす。足をぶらぶら、梛さんの目の前へとちらつかせながら。


「死とは、肉体の崩壊でしかない。それ以上でも、それ以下でもなかった。でもそれは、生物学的な文脈での話。やがて居住地を見つけると、人間は共同体を作った。ここまでは、分かるよね」
「わたしたちの祖先がこの土地に定住して、数を増やしたってことですよね」
「そういうこと。じゃあ共同体ができると、どうなる……」
「新しく定住地を探すために、移動する必要がなくなる」
「集団での移動は危険が伴う。生存に適した土地を見つけたのなら、危険を侵してまで移動する必要はなくなった。そうして、死は共同体によって浸食された。発見や開拓よりも、集団の維持が優先されるようになったから。死という概念は共同体の外側に存在するの」
「この国の現状と、似てますね」


 梛さんがわたしに顔を向ける。やっぱり、この人は答えを知ってるんだ。わたしが知らない、問いを立てることさえ未だ叶わない、この世界の概形についての答えを。


 もっとも鋭利な刃物がわたしの手の内にあったとして、果たしてわたしは、それを使って誰かを切りつけようと思うだろうか。一振りで骨と肉を断ち切れる刃物。梛さんはおそらくそれを持っている。きっとわたしが張っていた薄い膜も、知らぬ間にそれで切り裂いたんだろうな。普段は筆を持つその手に、何も意に介さない素振りで、しゅぱり。

 


 わたしはそれを『恐れている』。


 わたしはそれを『望んでいる』。

 


「今からだいたい百年ほど前、この国は近代化の真っ只中にあった」


 わたしはただ梛さんの唇を見つめていた。読心術の心得はないけれど、わたしの頭には梛さんの話す内容がしゅるしゅると滑り込んでくる。


「近代化によって、人間はまた移動をはじめたの。地方から都市へ、国から国へ。ある街では人口の三割が高齢者になり、ある街では人口減少に歯止めが効かなくなった。それはつまり、長年維持されてきた地域共同体の崩壊を意味する」
「死が別の意味合いを持ち始めたの。再び死は個人的なものになった。世界大戦において払った大きな代償を取り戻すために、国家は絶対的な存在として捉えることを拒んだ」
「そしてまた、壁ができた」


 一呼吸置いた後に、梛さんはそう言った。


「わたしたちは国家に封じ込められた。わたしたちの命は、わたしたちのもの。わたしたちの命は、この国のもの」


 諦観。そんな表情をするのはわたしだけで十分だった。梛さんのそんな顔なんて、見たくない。そう思って目を逸らしたわたしは、ふと、心の底からふつふつと新しい感情が湧き上がってくるのを感じた。名前のない感情。わたしは笑っていた。いつかのアルカイック・スマイルみたいに。


「どうしてこの国には、新しい宗教が生まれないんだろうね」


 梛さんは立ち上がりながらそう言った。わたしは何も言わない。


「これほど生きることの意味が変化した時代はそうなかった。人間は生きるために死者を弔う。それなら、この時代にだって」
「梛さん」
「なあに」
「梛さんは、どうしてわたしと」


 わたしの言葉は唐突に遮られた。身体に熱が伝わる。わたしは何が起こっているのか分からなかった。


「あなたが、××たがっているから」


 耳元で梛さんの声がした。わたしは動けなかった。梛さんの肩越しに、わたしはただ紅梅を眺めていた。花弁は五枚。すき、きらい、すき、きらい。