かぼちゃほろほろ

フィクションを書きます

いつかの、(春に)

四章

 


 春の泊。桜はまだつぼんだまま、人々の期待をシャワーみたいに浴びせられている。海良さんは三年生になり、わたしは変わらず同じ教室へ登校する。新入生たちとは付かず離れずの距離を保ちつつ、昼休みは屋上へと向かう。海良さんは大抵、アルカイック・スマイルを浮かべながらわたしを待っている。海良さんは四月一日生まれだったらしく、一日早く生まれただけで(そしてわたしの留年のせいで)二つも学年が違うのは不思議だなあ、とわたしは思った。
 
「お弁当、毎日手作りしてるんだ」
「暇なので」
「偉いね」


 白米、卵焼き、もやしのナムル(韓国の料理らしい)、それと梅干し。野菜を摂りなさい、と栄養士が口を酸っぱくして言いそうなのは分かっているけれど、しかし野菜は高い。わたしが生まれてから、ほとんどの野菜は気軽に消費できるような値段をしていなかった。理由はもちろん××××。


「ねえ、高校は楽しい」
「楽しくないです」
「じゃあどうして、あなたはここにいるの」
「……早送りするためです」
「早送り」


 弁当が不味い。どうせわたしがわたしのために作った弁当だ、どれだけ酷評しようとも構わない。実際のところ、味は別に悪くない。不味くなったのは話題を振った海良さんのせいだ。


「……慣性ですよ。レールに乗って、降りるのが面倒になったから。少しでも列車が速く進むように、『早く進んでいると思えるように』、それについては考えずに過ごしてるんです」
「でもあなたは、そのことに自覚的でいる」


 わたしはそれに答えなかった。全部分かっているから。海良さんはおそらく、そのことすらも理解した上で、わたしの傷を抉っている。わたしは梅干しを口に入れた。


「海良さんは高校、楽しいですか」
「それなりに」
「わたしは教室にいると、息が詰まりそうになるんです」


 酸素欠乏症。二酸化炭素中毒。金魚鉢に飼われたわたしたち。エアポンプなしで、カルキの効いた水の中を泳ぐ。三分の二が森林に覆われるこの国で、残りの三分の一に押し込められたわたしたち。せめて人のいない場所へ、わたし以外の目玉がない場所へ。


「今時、全体主義なんて流行らないよ。どれだけ勢力を拡大しようとしたって、この国の外側には出て行けないんだから」


 海良さんは笑った。アルカイック・スマイルを浮かべていた、その口元を緩めて。


 海良さんはこの国の歴史に詳しかった。それはつまり、この世界の輪郭を、わたしよりはっきりと捉えている、ということ。めちゃめちゃに歪んだ鳥籠。誰がこんなことにしたのか、どうして歪められなければならなかったのか。海良さんがそれらを知るようになった経緯も、そうしてどこへ行き着いたのかも、わたしには推し量ることしかできない。
 勝者の歴史。歴史はいつだって、記述者の主観が入り交じる。事実を取捨選択して、語るに値しない真実は記録に残らない。敗者の歴史は偽物。ベルベット生地のカバーで覆われたピアノみたいに、暗闇の中で、光が当たるのを待つだけ。もしそれが本当だとしたならば、この半世紀の歴史は、いったい誰によって語られたというのだろう?


 
 下校時刻、校舎から生徒が吐き出される。わたしとて例外ではなく、部室棟の橫をすり抜け、なるべく同級生に見つからないよう(まさしく幽霊みたいに)気配を消して駐輪場へ辿り着く。わたしが居を構えるアパートは街の中心部からやや東、高校のほぼ南東に位置する。


「やあ、待ってたよ」


 海良さん。ある日、わたしが自転車を破壊した旨を告げると、さらりとこう言った。


「乗せてあげようか」


 わたしはやや迷ったのち、その提案を受け入れた。迷った理由は、怖いから。交通規則で禁止されているし、なにより事故の危険性がある。当然、危険性があるから禁止されているに決まっているんだけど。提案に乗った理由は、背徳感。誰かと二人で自転車に乗るだけで、悪いことをした気分になれるなんて、わたしには十分過ぎるほど魅力的だった。この世界へのちっぽけな復讐。お手軽な反逆。十年後のわたしが思い出したら、きっと鼻で笑うだろう。でもわたしはそれでよかった。身体を傷つける勇気もなく、心を傷付けることに失敗したわたしが、わたしの形を保つためには、逸脱が必要だった。日常から、安定から、正解から。


「バス代が浮いて助かってますよ」


 そう言って今日もわたしは荷台に腰を下ろす。駐輪場の片隅、卒業生たちが残した、錆び付いたスクラップの中で。

 


 日差しは熱をもたらすけれど、風を切るわたしたちの体感温度はずっと低い。会話をする余裕もなく、わたしは落ちないようバランスを取るのに精一杯だった。交差点。わたしは荷台から降りて海良さんの傍らに立った。


「ん、別に降りなくたっていいのに」
「人通りも多いし危ないですよ」
「危ないから、乗ることにしたんじゃないの」


 信号が青に変わる。海良さんは自転車を降りる。ちょうど自転車を二人で挟むような格好になった。そのまま、海良さんは自転車を押し始めた。


「裏町通りまで行ったら、また乗せてあげるよ」


 裏町通りは川沿いにある。橋を渡る手前までが表町で、橋を渡ると裏町。なんでもこの川は、安土桃山時代、町の中心にお城があった頃、天然のお堀として使用されていたらしい。裏町通りの名称も、当時に城下町として栄えた名残だそうだ。
 川沿いには梅の木が並んでいる。桜並木よりも珍しい景色。梅はその別名を好文木と言う。学問に親しめば花が開き、止めると萎んだ、という晋の武帝の故事にちなんで、江戸時代に入ってから藩主が植えさせたものらしい。


 水面が陽光を受けてきらめいている。わたしは目を細めた。海良さんの背中からは表情は読み取れない。海良さんの髪を揺らしたのと同じ風が、わたしの髪をすり抜けていく。


「海良さん」
「なに」
「梛さんって、呼んでもいいですか」


 海良さんは前を向いたまま、自転車のギアをひとつ上げた。ペダルが重くなったのが振動で分かった。


「なんでもいいよ、別に」
「分かりました」


 梛さんが横を向いた。綺麗な形の耳だな。


「ねえ、梅は好き……」
「桜よりは」
「梅って、風待草とも言うんだって」
「風って、この風ですか」
「まあ、そんな感じ」


 そう言うと、梛さんはギアを落とした。緩やかに自転車は速度を失う。後輪ブレーキ。わたしの下で、車輪が締め付けられる。そして前輪。河川敷へ降りる石段の手前で、自転車は停まった。


「二十一世紀の初めも、二十世紀の初めも、同じ梅が咲いたんだよね」


 わたしはわずかに首を振る。


「わたしにはどうしても、そのことが信じられない」


 わたしにだって、信じられない。


「この国は断絶された。外側の世界とだけではなくて、過去とも。わたしたちはわたしたちの祖先が、国を閉じる決断をした、そのことの理由を知らない。それまで築いてきた伝統や歴史は、別種のものとして、連続性を失った」


 梛さんは梅の花びらを手に取った。七分咲きの紅梅から、風に乗って運ばれた花びら。桜よりも鮮やかな桃色は、梛さんの肌色によく馴染む。


「昔、この国が大陸と陸続きだったころ、わたしたちの祖先は狩猟民族としてこの土地にやってきた。旅をする遺伝子って、聞いたことある」
「旅をする遺伝子」
「そう。食べ物や住居を探し、人類は旅をしてきた。やがてそれは遺伝子に刻まれ、本能的な欲求として移動を指向するようになった、って話」
「初めて聞きました」
「そして移動を繰り返す限り、死は個人のものであり続ける」
「それ、どういう意味ですか……」


 梛さんは石段に腰掛けた。わたしはその斜め上、石垣の縁に腰を下ろす。足をぶらぶら、梛さんの目の前へとちらつかせながら。


「死とは、肉体の崩壊でしかない。それ以上でも、それ以下でもなかった。でもそれは、生物学的な文脈での話。やがて居住地を見つけると、人間は共同体を作った。ここまでは、分かるよね」
「わたしたちの祖先がこの土地に定住して、数を増やしたってことですよね」
「そういうこと。じゃあ共同体ができると、どうなる……」
「新しく定住地を探すために、移動する必要がなくなる」
「集団での移動は危険が伴う。生存に適した土地を見つけたのなら、危険を侵してまで移動する必要はなくなった。そうして、死は共同体によって浸食された。発見や開拓よりも、集団の維持が優先されるようになったから。死という概念は共同体の外側に存在するの」
「この国の現状と、似てますね」


 梛さんがわたしに顔を向ける。やっぱり、この人は答えを知ってるんだ。わたしが知らない、問いを立てることさえ未だ叶わない、この世界の概形についての答えを。


 もっとも鋭利な刃物がわたしの手の内にあったとして、果たしてわたしは、それを使って誰かを切りつけようと思うだろうか。一振りで骨と肉を断ち切れる刃物。梛さんはおそらくそれを持っている。きっとわたしが張っていた薄い膜も、知らぬ間にそれで切り裂いたんだろうな。普段は筆を持つその手に、何も意に介さない素振りで、しゅぱり。

 


 わたしはそれを『恐れている』。


 わたしはそれを『望んでいる』。

 


「今からだいたい百年ほど前、この国は近代化の真っ只中にあった」


 わたしはただ梛さんの唇を見つめていた。読心術の心得はないけれど、わたしの頭には梛さんの話す内容がしゅるしゅると滑り込んでくる。


「近代化によって、人間はまた移動をはじめたの。地方から都市へ、国から国へ。ある街では人口の三割が高齢者になり、ある街では人口減少に歯止めが効かなくなった。それはつまり、長年維持されてきた地域共同体の崩壊を意味する」
「死が別の意味合いを持ち始めたの。再び死は個人的なものになった。世界大戦において払った大きな代償を取り戻すために、国家は絶対的な存在として捉えることを拒んだ」
「そしてまた、壁ができた」


 一呼吸置いた後に、梛さんはそう言った。


「わたしたちは国家に封じ込められた。わたしたちの命は、わたしたちのもの。わたしたちの命は、この国のもの」


 諦観。そんな表情をするのはわたしだけで十分だった。梛さんのそんな顔なんて、見たくない。そう思って目を逸らしたわたしは、ふと、心の底からふつふつと新しい感情が湧き上がってくるのを感じた。名前のない感情。わたしは笑っていた。いつかのアルカイック・スマイルみたいに。


「どうしてこの国には、新しい宗教が生まれないんだろうね」


 梛さんは立ち上がりながらそう言った。わたしは何も言わない。


「これほど生きることの意味が変化した時代はそうなかった。人間は生きるために死者を弔う。それなら、この時代にだって」
「梛さん」
「なあに」
「梛さんは、どうしてわたしと」


 わたしの言葉は唐突に遮られた。身体に熱が伝わる。わたしは何が起こっているのか分からなかった。


「あなたが、××たがっているから」


 耳元で梛さんの声がした。わたしは動けなかった。梛さんの肩越しに、わたしはただ紅梅を眺めていた。花弁は五枚。すき、きらい、すき、きらい。

いつかの、(邂逅)

三章

 


 気が付くと二月になっていた。ベージュのコートはわたしを日々包んでくれたけれど、誰もわたしを抱きしめてはくれなかった。寒い。オイルヒーターのある壁際へ席が替わってもなお、わたしの寒さはわたしのもののままだった。


 自転車は修理に出す踏ん切りが付かず、アパートの駐輪場で眠っている。へにゃへにゃの前輪はなんだか愛らしく見えるけれど、それはわたしの加虐趣味のせいかもしれない。バスの定期を買う気にはとてもなれなかった。冬の路線バスは信じられないほどに混雑するのだ。加えて電車よりも激しい揺れ、とどめは渋滞による遅刻の危険性。そういうわけで、わたしはこの数週間、徒歩で高校に通っている。中学のころとは全然違う通学路。なにしろ住む街の人口が二十万人近く違うのだ。車通りは多いし、信号は気まぐれだし。だいたい四十分の通学時間、わたしは少しずつ物語を組み立てるようになった。二年前みたいにすらすらとあらすじは出てこない。


 物語を考えるのに飽きると、携帯を取り出して音楽を聴く。イヤホンを付けるだけで、目の前の景色は異なった色になる。まるであの頃、物語が溢れ出したときみたいに。わたしの中から物語が失われていったのは、音楽を聴くようになったからかもしれないな。流れるのは父が好きだったアイドルの曲。歌詞の意味はよく分からないけど、なぜか再生ボタンを押してしまうのだった。


 彼女たちは今何をしているのだろうか。フェミニズムの勃興とともにこの国はいくぶんか暮らしやすくなったらしいけど、アイドルはどうなったんだろう。少なくとも今現在、この国にアイドルと呼べるような職業の人間はいない。閉ざされたこの国で何があったのか、その全てをわたしは知らない。産業自体が成り立たなくなったのかもしれない。もしくは、アイドル、という枠組みそのものが、何か別の、例えば音楽家、とかに取り込まれたのかもしれない。家に帰ったら調べてみようかな、なんて考えを巡らせながらコンビニのある角を曲がる。店の前には除雪用のスコップが無造作に積み重ねられていた。そういえば、こんなに雪の少ない二月は初めてだった。


 アパートに着くころには背中が汗ばんでいた。冬用の肌着は熱をなかなか逃がしてくれない。部屋の戸を開け玄関へ入ると、わたしはすぐに制服を脱ぎ捨てた。目に見えるほど汗をかいたのなんて何ヶ月ぶりだろうか。体育は何かと理由をつけてサボり続けてきた。身体が熱を帯びるのが嫌いだからだ。心と身体がばらばらになっていくようで、どうしても不快感を覚えてしまう。脱ぎ捨てた制服を片付けるよりも、手洗いうがいを済ませるよりも先に、わたしは部屋の窓を開ける。三階の西向き。ベランダのない八畳一間は狭苦しく感じるけれど、ここからの眺めはわたしにとって救いだった。一月前の白鳥もこの窓のおかげ。手を伸ばせば届きそうな街の景色が好きだった。
 もしどこかで蝶がもう一度だけ羽ばたいていたとしたら、わたしはあっちのマンションに住んでいたかもしれない、あの骨董屋に生まれていたかもしれない、そういう夢想をするのが好きだ。眠れない夜には身を乗り出して星を見た。ベテルギウスを頼りにオリオン座の三つ星を探した。目的の星を見つけるのは簡単ではなかった。ここでは、空よりも街明かりがきらめくから。


 二月ともなれば、日が落ちるのは十七時を回る。身体の熱を冷ましたあと、わたしは夕暮れを眺めていた。遠くの山に隠れていく陽が空を染め上げる。あのくがねが去った後にはまた、白銀のように輝く星々がやってくる。星明かりはわたしを癒やしてくれるけれど、街明かりはわたしの胸をひたすらに締め付ける。その度にわたしは、ついぞ叶わなかった家族という幻想の形をなぞる。

 
 わたしに母親と呼べるような存在はいなかった。父はそのことを覆い隠すように日々を送っていたし、わたしは興味がなかった。どちらかに原因があって離縁したのかもしれないし、あるいは死別したのかもしれない。もしくはそもそも、わたしは養子なのかもしれない。母性とか父性という言葉の意味が今でもわたしにはよく分からなかった。仕事をして、ご飯を作って、洗濯をして、生ごみコンポストに持って行って、通知表を受け取りに来て、それで十分だった。片親なんてこの時代では特段珍しいことではなかったし、父との間にはそれをコンプレックスにするほどの確執はなかった。小さい頃の写真は残っていない。ただぼんやりと、父との出来事が記憶の中にあるだけ。当時のわたしにとって、ふたりという数は完璧だった。どんなものでも半分ずつにすればいい。一枚のピザはピザカッターで、ワンホールのケーキはペティナイフで。アジの開きが一尾だけ余った日は表と裏をそれぞれ食べた(骨が喉に刺さると危ないから、と父は背骨をわたしにくれなかった)。


 父は綺麗にピザを切り分けることができなかった。麻痺の残る左手はピザカッターを握るには頼りなかったし、利き手でない右手には、不器用です、と油性ペンで書いてあった。わたしがやるよ、と申し出るたび、父はそれを断った。国境線みたいにジグザグな断面を覚えている。いつも少しだけ、わたしの取り分が多かったことも。


 それと比べ、どうだろう。今のわたしにとって、ふたりは息の詰まる数字だ。数字の2と違って、ふたりは上手に分けられないことを知ってしまったから。友達と共有する空間も、それが終わったあとのさみしい空気も、はい半分こ、なんてできない。父親以外の「ふたり」に、わたしは耐えられなかった。


 ましてや、三人なんて。わたしはこの数字を知らない。父とふたりだったときには気にしたことなんて少しもなかったのに。上手くできっこない。わたしはいつだって、父がくれた愛情の分だけ愛情を返礼してやればよかった。力学的にはそれで対等なはずだった。父と子、という関係において均衡は成立するのか、という問題はあるけれど。
 そこにもう一つ物体が加わる。この物体Cを母と仮定する。するととたんに計算は難解になる。父と母はもしかしたら、ふたりの間の重心を軌道の中心とする連星かもしれない。わたしの重力が加わる。どうしてもわたしはそれが想像できなかった。わたしにはもしかすると、この類いの想像力が欠如しているのかもしれない。核家族であれ二世帯家族であれ、父親の隣にいるのは常にわたしであるはずだった。それなのに。

 

 

 夕食にはポテトサラダを作ることにした。食欲がないのはいつものことだった。ポテトサラダの素にお湯をかけていく。きゅうりもハムもグリーンピースも、わたしの冷蔵庫には入っていなかった。半分だけ残っていたたまねぎに包丁を入れる。ステンレス製の持ち手がいやに冷たい。なるべく薄く切ってから、塩をまぶしてしばらく待つ。流し台の明かりはリビングのそれよりも弱くて、それだけでなんだか不安な気持ちになった。やっぱりまだ、冬なのだ。ボウルにバターを加える。落ち葉の破片みたいな形をしたポテトサラダの素は次第にお湯と混ざって、次第に流動性を失い、よく見るあのポテトサラダになった。これならバカでも作れるな。つぎにコショウをガリガリと砕いて振りかける。そろそろいいだろう、とたまねぎを水にさらし、濡れ手で絞る。ぎゅっと絞られたたまねぎはへなへなになって手に張り付く。


 できた。具はたまねぎだけ。ポテトの白さがやけに際立つ。皿に盛り付ける気力もないので、ボウルから直接、スプーンで口に運ぶ。こたつの中で両足が汗ばんでいた。滑らかな舌触りのなかに、ぴりぴりと痺れを感じた。辛いな。きちんと水にさらしたはずなのに。どういうわけか、その辛みは舌の上にいつまでも残った。歯を磨いても、お茶を飲んでも、わたしの意識が眠りの中へ立ち消えていくまでずっと。

 

 

 

 毎朝五時に目が覚める。それまでは大抵、何かに追いかけられる夢を見ている。おとといは雪山だった。幼なじみと三人で中腹に穴を掘ってビバークしていると、下の方から大きな音が聞こえた。悲鳴に混じって唸り声が響く。わたしはこれが夢だと分かっているので、そこでぱちりと目を開ける。時計の針は五時を指している。


 低血圧のせいなのか、いつも頭が重い。口呼吸気味のため起き抜けは喉がカラカラで、珪藻土に水を掛けるような気分でコップ一杯分の水を飲み干す。二度寝しないように、なるべくすぐベッドから出る。八畳間にキングサイズのベッド。家を出るときに父からもらったもの。父はこれを独り占めしていたみたいだった。枕はひとつだけ。どれだけ手足を広げたって、絶対にはみ出ることはない。掛け布団を振り払うように飛び起きて、すぐにカーテンを開ける。窓はあまり大きくないけれど、ないよりはずっとましだった。西向きだから朝日は見えない。むしろそれでよかったと思っている。朝が来るたびどうしようもない絶望感に襲われるから。せめて心の中だけは、ずっと真夜中のままでいさせてほしい。


 我ながら吸血鬼になったかのような気分だった。石化しないだけまだましかな。わたしの未来は石化したままだけど。日々はとうとうと流れるのに、わたしの世界はいつまで経っても代わり映えしない。これまでも、これからも。あの山を眺めながら70℃のお湯に口を付ける。


 わたしは小さい頃からいつも、運命を探していた。初恋はアニメのキャラクターで、わたしはいつもその人を探していた。頭の中には主題歌が高らかに流れ、わたしは主人公の台詞を口にする。待ってろよ。ぜったいに、迎えに行くからな。
 つまりは運命の人が欲しかったのだ。この世界の未来を分かち合うような、そんな人が。子どもながらに知っていた。未来のないこの国について。六十年来の経済停滞に陥った世界のありさまを。期待しては淡い失望を受け取り、そうしてわたしはふたりという数字を失った。わたしには親友がいる。でも、友達はいない。

 

 


 それからひと月ほど経った。最低気温が零度を上回る日も増え、わたしは炬燵のヒーターをほんの少し弱めた。高校では上級生たちが受験結果を待っている。暖かいけれど、張り詰めた空気。わたしは来月も一年生のまま。そう思うと肩が軽くなった。まだ先のこと。現実と向き合うのは、まだ先。


 なんで日本では四月から新年度が始まるんだろう、と気になって、いちどパソコンで調べたことがあった。なんでも二世紀近く前のこと、日本の元号が明治だったとき、大蔵省という省庁の役人が赤字を防ぐために年度を短くしてしまったらしい。その真偽はともかく、そんなきっかけで決まった一年間に、我々はどれだけ振り回されてきたのだろう。桜が咲く季節に入学なんて素敵じゃないか、という声もあり存続してきたようだけど、わたしからすればたまったもんじゃない。この街では桜は四月には咲かない。そもそも桜は嫌いだ。どうせ一度始まったことだから、という慣性の法則によって続いてきたようなものだ。くだらない。


 心の中で悪態をつきながら屋上へと向かうと、果たして扉は開いていた。鍵なんてかかっていないから、それ自体は特段おかしなことではない。それよりも、わたしを驚かせたのは。

 

 


 キャンバスがある。

 

 


 ふた月前と変わらない姿で。


 あのときと同じ、黒々とした山の姿。


 驚くよりも先に、わたしは安堵していた。屋上に来れば、あのキャンバスがある。そう予想していたからだ。わたしは笑った。久々のことだった。また、あの山に会えた。
乾いたコンクリートの上をわたしの脚がすべった。それほどに、わたしはあの絵に興味があった。二メートルほど離れた位置に急停止して、キャンパスの全体像を視界に入れる。近くで見ると、キャンバスに描かれた山は、きわめて黒に近い深緑色をしていた。背景の空はそれよりもわずかに青みを帯びた、鉄色をしていた。キャンパスの上にはその二色だけ。もしキャンバスが他の場所にあったなら、ほとんど誰もここに描かれているのがあの山だとは思わなかっただろう。徹底的に捨象された抽象画。わたしは東山魁夷の「道」を思い浮かべた。ここからそう遠くない土地の道を題材に、魁夷が自らの人生を重ね合わせて描いたものらしい。


 つまりはこういうことだ。わたしは、この絵の作者に興味がある。わたしにとって大切なあの山を描いた人物に。どうして夏山を描いたのか。どうして二色だけを用いて描いたのか。どうして空はのっぺりとしているのか。それらに対する答えはすべて、わたしの内にはないものだった。

 


 出会いはいつだって唐突なものだ。

 


 わたしはそこで海良梛(かいらなぎ)という人間を見つけた。この絵の作者であり、これからしばらく、わたしと同じ世界を共有することになる相手。端的に言えば、それはわたしが追い求めていた「運命」に限りなく近いものだった。


「その絵、わたしが描いたんだ」


 わたしは突然の出来事に、持っていた弁当箱を放り出しそうになる。

 

「は、はあ」


 今に至る一部始終を誰かに見られていた、という羞恥心で頭が真っ白になる。ようやく思考が戻ってきてからも、しばらくわたしの心臓は波打ったままだった。先ほどまで物思いに耽っていたのに、あのときの言葉が見つからない。どうやらわたしのCPUは熱暴走してしまったみたいだ。

 

「あなたはこの絵、好き?」
「なんというか、興味があって」
「何が描いてあるのか、分かるよね」
「山、ですよね……」


 海良さんは口角をほんのわずかに上げた。ごく自然な笑み。だけどわたしには海良さんが、感情を生み出すために先んじて笑ったように見えた。

 

「海良さん、ですか」
「そうだよ。あなたはどうしてここに来たの」


 海良さんの手がわたしの制服の袖に触れそうになる。わたしはあわてて後ろ手に弁当箱を隠した。


「屋上が、好きなんです。二ヶ月前も、ここに来て、この絵があって……」
「それもわたしが描いたやつだよ。今描いたこれが四枚目」
「なんで同じ絵を何度も描くんですか」


 やっとのことで疑問を口にする。わたしはこの人のことを何も知らない。きっとこの人も、わたしのことを何も知らない。せいぜい、制服のおかげで、この高校に通っていることが分かるくらいだ。それと、わたしよりも年上であること。彼女から視線を逸らして、上履きに目をやる。側面に入ったロゴは、赤色。わたしのは、青。赤はたしか、二年生が履く色だったはずだ。


「あなたは、一年生」
「はい」
「中学校はこの辺り
「いえ、わたしは学区外入学です」
「じゃあ、あの山はそこまで馴染み深くないの」


 海良さんが顔を山へと向ける。


「わたしの地元は北の県境で、あの山は家から見えなかったんです。だから二年前までは、ほとんど気に留めたこともありませんでした」
「でも父と一緒に登ることになって、それから」
「わたしは単純に山が好きなだけ。あなたみたいに登る人、今は少なくなったよね」
「海良さんは登るんですか」
「たまに、ひとりで、ね」


 確かに登山者は全国において、年を重ねるにつれ減少していた。社会に漂う得も言われぬ閉塞感から逃れようと自然へ人が逃避するのは、わたしにとってごく自然なことのように思われた。それなのに、どうして。


「この屋上がどうして開放されるようになったか、知ってる……」
「生徒会と戦った人があるって聞いたことがあります」
「そう。じゃあどうしてそれまで閉鎖されてたのかは」
「そこまでは」
「人が、落ちたんだって」


 海良さんは山を眺めたまま、独り言みたいに言った。わたしは自分が、あの山の稜線沿いを歩く姿を思い浮かべた。よく晴れた白昼、一人きり。アイゼンが雪を踏みしめる音は、風にかき消される。心臓の音が聞こえる。それから、ザックとソフトシェルの擦れる音。背中は蒸れて気持ちが悪い。かいた汗は、風によって徐々に温度を奪われる。
 わたしは冬山になんて登ったこともない。理由はただ、危険だからだ。死にたくないから。滑落、雪崩、遭難、凍傷、死に至る要因はいくらだって挙げられる。作戦「いのちだいじに」。近年、国内の事故による死亡率は漸減しているらしい。登山者の減少と関連性があるのだろうか。


「それ、本当ですか……」


 空想の世界から帰還して、わたしは訪ねる。正しくは、相槌を打った、だけなんだけど。


「わたしも、詳しくは知らないんだけどね」


 海良さんはフェンスに手を掛けた。別名、落下防止柵。人が死なないための設備。この柵は、顔も名前も知らない「誰か」が飛び降りたそのときから、変わらずにいるのだろうか。
 わたしには絶対に飛び越えることのできないフェンス。積もり積もった世界への鬱憤を晴らすための最終手段。わたしにはできない。それよりもずっと、生きることに執着しているわたしがいる。その程度。だから、わたしは閉じ籠もった。あの山もオリオンも見えない部屋の中に。


 世界は人間に優しくなった。車椅子のためにスロープを、盲人のために点字ブロックを。それまで社会的弱者と捉えられていた人々が、制約から解放されるように。駅にはホームドアを。人が死なずに済むように。およそどんな人間でも切り捨てずに社会の構成員として機能させること、それが人類の生存戦略であり、思いやりの公共化。社会福祉と一般的に呼ばれるものは、基本的に国や自治体が税金を使用して行う公的サービスだ。医療もそう。
 この六十年間で社会福祉は目覚ましい進歩を遂げた。公的教育における授業料は基本的に無料。医療費も無料。それは不必要になったインフラや大幅に削減された軍事費から捻出されたもので、おそらく「壁」ができた当時からすれば随分暮らしやすい社会になったはずだ。少子化は多少なりとも改善され、結果として死亡率は低下した。


 当然、そこからあぶれる人間も依然として存在する。タナトスに取り憑かれてしまった者を救う手段は少ない。ひとりひとりの幸福のため、社会福祉は存在します。でもきっとみんな分かっている。あなたたちが死なれては困ります。この国がぼろぼろと崩れてしまうからです。構成員は人的資源。子孫繁栄、国利民福。


 屋上の縁から一歩を踏み出した「誰か」は、何を思って、何を見たのだろうか。苛烈な家庭環境、いじめ、抱えきれない秘め事、将来へのぼんやりとした不安。わたしにあとほんの少しだけ勇気があれば、わたしはもうきっとこの世界にいなかった。


 昼休みが終わる。校庭のスピーカーからチャイムが聞こえる。弁当、食べそびれちゃったな。


「また、屋上で待ってる」


 海良さんはそう言うと、わたしに背を向けて扉を開けた。後にはわたしとキャンバスだけが残された。薄曇りの空。叢雲があの山の頂上を覆っている。その乳白色は山頂付近の雪へと溶けこんでいる。それは、まるであの山が雲を介して、この世界と天をつなぎ止めたみたいだった。

いつかの、(春待ち)

二章

 

 

 春を待っている。春はまだ遠い。グラウンドを覆う霜柱を踏みしめるスパイクの音が聞こえる。


 わたしは自転車を漕いでいる。氷面をタイヤが滑る。中学まではもっぱら徒歩が移動手段だったから、冬期の移動に自転車を使おうと決めるには少し勇気が必要だった。雪の上を走るのはまだいいけど、今日みたいに路面を氷が覆う日は本当に危ない。じゃあなんで自転車なんか使うんだ、と言われればそれまでなんだけど。


 サッカー部が朝練に精を出している。雪上でできるトレーニングなんてたかがしれていると思うんだけど、よくもまあ毎日走り回ろうと思うものだ。彼らを横目に駐輪場へ向かう。


 そのとき、身体がぐらりと傾いた。咄嗟に左足をペダルから離してバランスを取り直そうとするが、すでにタイヤは宙に浮いていた。そのまま右肩から地面に叩き付けられる。鈍い痛みを感じた少し後、自転車のハンドルが脇腹にぶつかった。痛い。痛い。痛い。奥歯を食いしばって身体を起こすと、ぐにゃりと拉げた前輪が目に入った。どうやら側溝を覆う金網の上でスリップしたらしい。幸い携帯電話はコートの左ポケットに入れていたから、壊れて困るようなものは何も破損していなかった。


 じんじんと痛む右肩を押さえながら、ひとまず自転車を駐めて鍵を掛ける。今から自転車屋に向かうような時間も気力もないから、放課後に何とかしよう。わたしは校舎へ向かって歩き出す。駐輪場を出ると、氷点下の空気が少しだけ揺れて、わたしの頬を刺した。よく晴れた冬の日。こういうのを、放射冷却、というらしい。空と地面のあいだには何もない。からっぽの空間を見上げた。そういえば、どこからが空なんだろう。触れられないものにも名前がある。


 手を洗おうと通学鞄を抱えたままトイレに入る。手洗いの鏡を見ると、頬に裂傷ができていることに気が付いた。さっきの痛みはこれのせいか。その途端、また刺すような痛みが訪れた。傷は実際に目にしてからより痛くなるらしい。理由はよく分からないけど、たぶんそう。他の生徒の目に留まるようなことはしたくない。ただでさえ留年が決まった唯一の高校生だっていうのに、あんな自転車事故、いや事故なんて言いたくないけど、あれを起こしたのが話題になったら間違いなくわたしの居場所は狭くなる。


 保健室を訪ねるわけにも行かず、諦めて教室に戻る。血は出ていないみたいだけど、肩の打撲傷は大丈夫だろうか。一抹の不安に駆られながらも、ひとまず頬の傷はマスクをして隠すことにした。


 
 お昼ご飯を食べに屋上へ向かう。一般的な高校とは異なって、ここでは平常時にも屋上が開放されている。なんでも二十数年前に生徒会との議論の末、鍵の常時開放を勝ち取った生徒がいたそうだ。その話を聞いてから、屋上へと続く扉を開けるたびに知らないその誰かへ感謝を捧げることにした。わたしだけの空間を、ありがとう。
 幸いなことに屋上には雪がなかった。コンクリートに張った薄氷が日差しを浴びて溶け出している。じんわりと濡れそぼったコンクリートの上を上履きで歩く。ちょっと気持ち悪いけど、多少靴底が汚れるくらいなら、まあいいや。濡れていない場所を探して、腰を下ろした。チリトマトのカップヌードル。お湯はポットに入れて持参している。3分待つ間に辺りを見回す。遠くに山が見える。あの山はこの街でいちばん高い。わたしはあの冠雪した姿が好きだ。例年は十二月初めに真白な姿へと衣替えをするのだけど、今年は少し遅かったらしい。


 わたしがこの街で暮らし始めたのは昨年の四月、高校進学を機に一人暮らしを始めたのがきっかけだった。そのときからあの山はずっとわたしを見ている。月がどこまでも追いかけてくるみたいに、街のどこからでもあの山は見える。曇りでわたしが見つけられないときでも、向こうはわたしを見つめているような心地がした。遠くまで広がる裾野は、わたしのコンプレックスだった撫で肩によく似ていた。

 


 その隣に、キャンバス。

 


 あれ、先客がいたのか。そう思って視線を移したけど、そこには誰もいなかった。
キャンバスの上にはあの山の絵。雪のない黒々とした姿。どうしてこの時期に、夏山を描いているんだろう。その疑問を投げかけるべき相手は見当たらない。
 そういえばわたしは美術部だった。帰宅部と兼部である。地方の進学校にはよくありがちな「部活動は参加必須」という校則のせいだ。絵を描くのは好きだったからなんとなく選んだ。それももう半年近く行ってないんだけど。
 わたしの記憶では、美術部にこんな画風の部員はいなかった。一ヶ月そこらの活動期間ではあるが、それなりに部員一人一人の絵は見てきたつもりだ。この半年で新しい作風に挑戦しようとしたのだろうか。高校生ならそれは十分にあり得る。キャンバスには湿った箇所が見当たらない。朝露でできた染みがないとすると、このキャンバスは今日、しかもこの三時間以内に置かれたもののはずだ。


 ふと、我に返る。どうしてわたしは、このキャンパスに興味を抱いているのだろう?不思議な画風ではあるけれど、決して上手い絵だとは思えない。山は二次元のままにのっぺりとしているし、色彩にも極めて乏しい。まるで一色で塗られたみたいに。


 思い返してカップヌードルの蓋を開けると、既にスープは無くなっていた。

 

 チリトマト味のまぜそばを平らげた後、わたしは再びキャンバスの前に立った。口から吐いた湯気が空気に混じっていく。このトマトの匂いは、風に乗ってどこまで行くのだろう。あの山も嗅ぐのだろうか。

 


 二年前、父とあの山に登った。八月、まだ暑さの残る晴天の下。今日とは違う、緑に覆われた姿。わたしは特段山登りが好きというわけではない。どうして身体をあんな高いところまで持って行かなければいけないのかよく分からない。身を持ってエネルギー保存の法則を体感するには、いささか放熱によるエネルギーの放出が大き過ぎると思う。そのころわたしと父の親子関係は健全な形でこじれていて、父への返答はもっぱら、うん・いや・いらない、の三種の語彙によって行われていた。


「山、登らないか。来月から夏休みだろう?」
「うん」
「道具はこっちで準備するから。足のサイズっていくつだったんだ」
「随分大きくなったんだな。そのスニーカー、小さくないのか」
「いや」


 そんな具合に。わたしが父のことを嫌っていたかといえばそうではなくて、今よりも少し内向的だったからなのだろう。あの頃のわたしは心に物語を飼っていた。学校までの二十分の通学路。夜、布団を被ってから意識が無くなるまでのあいだ。父の車で大きな街へ買い物に出かける助手席。友達同士がばらばらになってお互いを傷付けるように戦いへと巻き込まれていく話とか、あるいはある高校のサッカーチームが全国大会で優勝を目指す話とか。わたしの中の物語はふとしたときに溢れ出し、目の前の景色を媒介して現実を彩った。海へ行けば物語の舞台は海へ移り変わった。布団の中には宇宙があった。わたしの部屋の天井は星の模様で埋め尽くされた壁紙で、しかもそれは夜になると蓄光によって光るのだった。

 
 父と山に登っているあいだ、ほとんど会話を交わすことはなかった。わたしの頭の中では主人公たちが息を切らして山道を登り、別の物語では森に隠れた敵との戦闘が始まっていた。わたしの意思とは無関係に物語は展開される。結末はわたしにも分からないし、もちろん主人公たちにも知る由のないことだろう。途中に数回の小休憩を挟んだ後、わたしと父(それから登場人物たち)は山頂へ至った。富士山より千メートル以上も低いから楽勝だろう、と心のなかで高をくくっていたけれど、わたしの見通しはあまりにも甘かった。喜びと疲労感の間でせめぎ合う頭を抱える。リュックが重い。膝に手をつき地面を見つめるわたしに、父が手を差し出す。登頂記念の握手を交わす。山頂は風が強く、脱いだ帽子が飛ばされそうになった。


 登り始めた朝七時はあんなに晴れていたのに、正午過ぎの山頂は雲に覆われていた。父の見立ては外れたようだ。悠長に昼食を楽しんでいるわけにはいかない。わたしたちはぎこちなく記念撮影を済ませたのち、そそくさと下山したのだった。

 


 それからもう、父親の影は見ていない。

 

 

 わたしは十六歳になった。うら若き、という言葉がよく似合う年頃だ。多くの大人がコンプレックスを抱えているであろう、青春の真っ只中にいる。わたしは時々、青春の入り口のことを思い返す。いまよりもっともっと、青かったころ。家の庭になった梅の実みたいに、みずみずしくて、生を疑わなかったころ。わたしは確かに、物語を紡いでいた。


 あの物語たちはどこへ行ってしまったのだろう。たしかまだ終わっていないはずだ。そう思い返してストーリーラインをなぞろうとしたけれど、上手く思い出すことができない。彼らはもう、死んでしまったのだろうか?

 

いつかの、(幻肢)

一章

 

 

 この街の冬はちっとも優しくない。誰かの作った物差しによればだいたい北緯三九度に位置するのだと、地球儀を見て知った。日が出ていようが出ていまいが氷点下のままだし、手袋が無ければ外に出る気さえ起きない。そのくせ夏はジメジメとしていやに暑い。冬が寒いんだったら、せめて夏は涼しくあってくれ。

 

 春が来るまでまだずいぶんある。この街ではいわゆる別れの季節に桜は咲かない。日本の北部に位置するこの地域に、桜前線はなかなかやって来ない。雪が溶けてから約一月、それくらい。だからわたしは、文字通り温室育ちのマジョリティが歌う、桜をモチーフにした歌へと思いを重ねることができない。

 

 冬は雪。春は桜。都心ではろくに雪も降らないくせに、よく言ったものだ。この国では美しい四季が特色としてよく挙げられるらしいけど、地球儀を見ればすぐに分かる。似たような気候の地域が世界に沢山あること。結局はアイデンティティなんて曖昧なものだよ。わたしがその話をすると父は言った。でもそれがもう確かめようのないことを、わたしは知っている。

 

 

 

 この国が「閉じて」しまってから、だいたい六十年が過ぎた。日本は他国との国交を断絶し、在留外国人は帰化による外国籍の放棄または母国への送還が行われた。つまり今現在、日本国内には「日本人」のみが在住していることになる。この動きが起こったのは日本だけではなかったみたいだ。ヨーロッパ連合は二〇二〇年二月初めのイギリスの離脱をきっかけに崩壊し、それぞれがそれぞれに歪な殻を造り閉じ籠もった。

 

 その時の文献はインターネットにいくらでも転がっている。といっても、国外のサイトは閲覧不可、ということになっているから、専ら情報源になるのは邦人が邦人のために書いた記事ばかりだった。

 表立った言論統制は行われていないので、当時から「鎖国」に反対する勢力が存在していたことは分かっている。一応民主主義の形を取ってその決定は行われた。

 

 当時の大人たちは独裁を嫌った。一人に盲目的な形で縋り付く全体主義の脆さを、全盛期に思い知っていたから。まるでブロックチェーンみたいに大人たちは団結して、大きな壁を作ったのだった。 

 

 

 そうして世界をめちゃくちゃにした後、大人たちはみんないなくなった。

 

 

 父親は賢い人だった。物心がついたころから、父はこの世界の形をわたしに教えようとしていた。夜、わたしが床につくと、父は同じ布団に入り話を始めた。あるときは昔に書かれた絵本を使って、またあるときは寓話の形を取って。当時のわたしにそのぜんぶを理解するのは難しかったけれど、それで十分だった。レゴでできたでこぼこの地球儀がわたしは好きだった。

 

  八時五分前に校舎へと滑り込んだわたしは、急いだそぶりをなるべく見せないように階段を上り、音の立たないよう教室の戸を引く。わたしの席は一番廊下に近い列の前から二番目にある。  本当は窓際の席がよかった。退屈な日本史の授業中は外に意識を向けることもできるし、なにより壁際にはオイルヒーターが付いている。今日も最低気温は零度を割り込んでいて、わたしの髪とマフラーは雪で白く染まっている。  白い雪が白い空から降ってきて、白い街と白い校舎をまた白で塗り直す。色彩に乏しい、という表現を使うとき、それはもっぱら黒やグレーを指して使われるものだけど、白一色、と言う意味ではこの街も色彩に乏しい。そういえばチョークの粉も白いよな、雪みたいだ。 

 雪に覆われた校舎は、雪中での戦闘に向けて迷彩塗装を施された戦車のように、ひっそりと景色へ溶け込んでいる。わたしは濃紺の制服を着ている。

 

 今日が最後の登校日、と決めている。もうこの高校の門を潜るつもりはない。制服も校則も先生も友達も、全部が最後。グッバイ青春。といっても、振り返るような青春なんてろくに無かったけど。

 

 わたしはからだの周りに、半径二五〇センチの薄い膜を張って生きている。きっと他のみんなもそうなのだろう。その中は様々な液体で満たされている。ミルクセーキとか、アルプスの雪解け水とか、スッポンの生き血とか。組成はまだ分からないけど、わたしの膜を満たす液体は限りなく透明に近くて、でもその膜を通して見る世界はどこかぼやけて見えるのだった。  この膜がある限り、わたしは誰にも心を開かない。開くことはできないのだ。他人がどうやって生きているのかはよく分からないが、わたしはそのつもりで生きている。

 

 学校は正直、息苦しかった。青春を描いた小説やアニメの中に現れるような陰鬱とした主人公、彼らに想いを重ねてみることもあった。小さなハコに詰め込まれて、「わたしのため」ではない教育を押し付けて、それでいてどこか楽観的な、そういう空気が好きではなかった。閉鎖的な空気はどこか当時の日本、いや、世界のあり方と似ていた。何も閉じられてはいないはずなのに、どこへも行けないような。そんな桎梏から逃れる術を、わたしは持たなかった。

 だからわたしは、部屋に閉じ籠もることを選んだ。わたしという存在を、わたしの心の中から消すために。  残念ながらわたしには、自死を選ぶほどの覚悟も勇気も弱さもなかった。わたしにとって百年を越えるほどの寿命はあまりにも長く、与えられた時間を檻の中で過ごすのは永遠に続く命を神か悪魔から授かったにも等しかった。  もし心を永遠に壊すことができたならば、永遠の命もわたしにとっては永遠ではなくなる。たとえ残りの八十数年を精神病棟の中で過ごすことになったとしても、そんなのわたしの知ったこっちゃない。わたしという自我が失われた身体は、もうわたしのものではない。

 

 

 誰にも告げず、わたしはそれを実行に移した。放課後、宅配便がたくさんの荷物を運んでくる。ひとまずしばらくの間餓死せずに済むだけの食糧を確保して、家の扉を閉じる。  
 別に孤独だとか、そういうわけではなかった。確かに両親とは離ればなれになっていたけれど、友達はいたし、先生ともそこそこ上手くやっているつもりだった。ただ、あの閉塞感に耐えられなかった。みんな分かっているはずなのに。この国には未来がないってこと。  鎖国をしてからこの国には第三次ベビーブームが訪れた。観光業によって得られる収入が減り、産業は変化を余儀なくされたけど、観光施設の修復や美化に使われるはずだった税収は福祉や教育に注がれた。その結果人口は回復し、今は一億一千万人くらいに落ち着いているらしい。

 

 少子高齢化は確かに改善されたけど、増えた子どもたちはこの国の未来に夢なんて見ない。背中ににじり寄る死の匂いに気付いているからだ。それはきっと先天的に備わった生存本能のようなもので、停滞したこの社会の有り様に崩壊の兆しを感じ取っているのかもしれない。淀みに浮かぶうたかたは、久しく留まるべきではないのだ。

 

 わたしが立てこもりを決意したのは、わたしが生まれ落ち生きるこの世界への、せめてもの抵抗だった。国家はそれぞれ外交手段を放り投げ、内憂外患を打破するため門を閉ざした。それなら、わたしが外界との接続を絶つことに何の問題があるだろう?  わたしだって沢山の問題を抱えている。身長は相変わらず小さいままだし、物理の公式はいつまで経っても覚えられない。ドップラー効果なんてどうして勉強しなくちゃいけないんだ?わたしにはもっと学びたいことがある。学校で教わらない歴史のこと。今まで一度も母語として誰かが話すのを聴いたことのない、英語や中国語、あるいはもっと話者の少ない言語のこと。アイヌ語でもいい。学校で教わることを軽んじるつもりはないんだけど、他にも学びたいことが多すぎる。  わたしは学問の横への広がりを父から教わることができた分、同級生たちよりは幸運なんだと思う。もしそれを知らないままだったとしたら、閉ざされたこの国で大海を知ることなく生涯を終えることになったはずだから。

 

 大人は嫌い。自分勝手に塀を立てるから。硬質化した思考で、身の回りのあれこれをセメントで固めはじめる。あの子は言葉遣いがきれいじゃないから、あんまり遊ばないほうがいいよ。右折するときに方向指示器を出さない人間なんて、事故を起こして当然だ。カタカナ語を使うのは、先祖が外人の証拠だ。そうやってコレクションした偏見の上に、思考を積み重ねる。大人になると、壁になるんだ。わたしの自由な思考を邪魔する壁。世界のほんとうの姿を隠す壁。

 

 生物学的な区分とは全く別のところで、わたしたちは制約を受けている。どこかへ行ってしまいたいと思っても、この国を出ることさえ許されない。わたしの知らないうちにわたしの可能性がどんどんと失われていくのだと思うと、この世界がたまらなく恐ろしいものに思えて仕方がなかった。

 

 まずひと月、カーテンを開けずに過ごした。学校からの電話は入学当初から着信拒否設定になっている。両親からはなんの連絡もなかった。一日のうち約半分をベッドの上で消費して、残りはほとんど本を読み漁ることに使った。窓の外で白鳥の鳴き声が聞こえた。シベリアから越冬のため、この街にある池を目指し渡ってくるのだ。ふと窓へと顔を向ける。カーテンからは柔らかい光が漏れていた。もう昼になってたんだ。

 

 かくして私は窓ガラスに触れた。結露した水滴が窓枠へとこぼれ落ちた。冷たい。指先に感じた温度は、私にとって心地の良いものではなかった。この部屋は完全に閉じられてなどいない。この冷たさがその証拠だった。

 

 わたしは寒気を覚えた。わたしはきっと、この世界と完全に断絶することなどできない。外の世界と繋がっていなければ、わたしは呼吸を続けることすらできないのだ。わたしが食らった食物も水もぜんぶぜんぶ、わたしの外側からやってきたものだった。たとえアメリカ映画で見たような戸建て付きのシェルターに閉じ籠もったとしても、『現時点で』『生きるために』外部との接触(たとえそれが人とのつながりを排除したものだとしても)を断ち切ることはできない。

 

 部屋の扉を開ける。郵便受けには水道の明細とピザ屋のチラシと市議会便りが窮屈に詰め込まれていた。靴を履くのも一ヶ月ぶりだった。外へ出ると、白い息が口元から溢れた。あまりの明るさに少しだけ眩暈がした。わたしは今までずっとトンネルの中にいて、突然外へと放り出されたような。わたしはまだ、『残念ながら』この世界から見放されてはいなかった。

 

 

 たったひと月の立てこもりを経て、わたしは当然のように高校へ通うことにした。教師からは何も言われない。それから一週間後、郵便受けの底に留年の通知書がそっと寝そべっているのを発見した。わたしの青春は、どうやらもう一年延長されることになったらしい。

いつかの、

 プロローグ 


 この世界には壁がある。目に見える壁、見えない壁、守るための壁、分けるための壁。壁のはじまりは何だったんだろう。自分の土地であることを示すため、あるいは外側の脅威、例えば外敵や自然条件などから私的領域を保護するため、人は壁をつくった。

 

 

 やがて人は、閉じ込めるための壁をつくった。昔、あるアメリカ大統領がメキシコとの国境に壁を造った。移民が流入しないように。もっと昔、ドイツの首都には大きな壁があった。西と東を行き来できないように。
 
 


 そしてまた、壁ができた。見えない壁。大きな大きな、壁ができた。

 

 

「ハードルは高ければ高いほど潜りやすい」

 

 

 いつか誰かが言った。

 
 もしそれが壁だったら? 穴のない、のっぺりとした壁。無表情を塗りたくった白い壁。潜るなんてもっての外、鼠のための穴もなければ、上端も下端も右端も左端も見えないくらい縦横に広がった壁。
 

 例えばそれに私が初めて向き合ったとして、私はそれを壁だとは思わないだろう。きっとこの世界は「ここ」で終わっている。この外側には何もないだろう、と。宇宙の膨張が追いついていない場所みたいに、無が転がってるんじゃないか。
 

 

 わたしはそう考える。壊すことも乗り越えることも、誰からも学んでこなかったから。天井がガラスでできているなんて、知らなかった。

壊れないままで

 わたしが心に殻を作るようになったのはたしか14歳のころで、さして勉強に精を出さなくてもテストでいい点数が取れると分かったとき、私はゲド戦記を読んでいたのにまわりの友達はライトノベルを読んでいたときのことだった。どちらが高尚だとか低レベルだとかそういう議論を脳内で交わすこともなく、ただぼんやりと、彼らとわたしは違うのだ、と思っていた。

 

 

 それがより決定的なものになったのはその年の冬だった。わたしは学級委員を務めていて、学校総会ではクラスから出された意見や質問をとりまとめ、代表として委員会へ提出する役割を受け持っていた。夏の終わりに特設陸上(わたしの学校には陸上部がなく、代わりに毎年秋になると全校に募集がかけられ地区の大会のために部が作られるのだった)を経験していたわたしは、そこで校則への違和感を訴えることにした。

 

 どうして白い靴下以外履いてきてはいけないんですか。グラウンドを走るとこんなに汚れるのに。部活のあとわたしが投げかけた問いに先生は答えられなかった。それを総会で議題に挙げてみたらどうだろう。代わりに先生はそう言った。分かりました。わたしは少しだけ怒りを感じていた。先生はどう思ってるのか言えばいいのに。
 あの先生は生徒から評判がよかった。恰幅のよいすがたはトトロによく似ていて、金曜ロードショーでトトロが放送される日には学年中でもてはやされた。バスケットボール部の顧問で、わたしの在校中には県で準優勝した。わたしはトトロは好きだったがバスケットボールには縁もゆかりもないまま育ったので、その先生とは理科の授業と特設陸上の活動しか接点がなかった。

 


 生徒会を前にわたしはひとり壇上に立っていた。生徒会が座る机の横にはあの先生が立っていた。紺色に黄緑のラインが入ったアディダスのジャージを着て。
 校則について質問なのですが。わたしは震える声で言った。わたしをぐるりと取り囲むように壇の周囲を体育座りの在校生が埋め尽くす。約600人の視線を感じながら、わたしは答えを待っていた。


 すみません。よく分かりません。副会長と書かれたプレートの上で口がパクパクと動いた。どうして靴下は白のワンポイントにかぎるんですか。その質問に最後まで答えは出なかった。片付けが終わったあと、あの先生がわたしと他の学級委員を呼び出して言った。
 この冬休みのあいだに、どうして靴下が白でなければいけないのか、考えてきなさい。それから私が生徒会と話し合って判断するから。


 それきりだった。他の学級委員とわたしの間で靴下の色が話題に出ることはなく、春が来て、私は中学校を卒業した。まるでなにも無かったみたいにあの先生は綺麗な涙を流していた。自作自演の送辞と答辞に。
 

 


 それから5年経った。成人式の会場に先生がいた。また少しだけ恰幅がよくなって、生まれたばかりの娘を抱いて。わたしを見掛けると先生は笑顔を浮かべやってきた。元気だったか。はい。お子さん、生まれたんですね。抱いてみるか。はい。そうして抱いた赤子はすやすやと眠っていた。思ったよりも重いんですね。二言三言挨拶を交わして、先生は人混みの中に戻っていった。


 わたしは教師を嫌いだと思ったことがない。いじめの当事者になることもなく、不登校になるわけでもなく、成績はいつも学年で五指に入った。彼らから期待の言葉を掛けられることはあっても邪険に扱われることは終ぞ無かった。恵まれているのだと薄々勘付いてはいたが、恩師として誰かを仰ぐようなこともなかった。成績の悪い同級生に強い言葉を投げるのを見て胸が苦しくなることはあっても、それは彼らを嫌う理由にはならなかった。


 それはきっとわたしのこころが大人びていたからでもなく、教師を呼び捨てにする周囲に嫌気が差したからでもなく、彼らの奥にある人間らしさを愛していたからではなかったか。娘を抱くあの先生の姿を見てから、わたしはそう思うようになった。きっとそう思えることこそが恵まれていた証拠なんだ、と同じようにして気付いた。


 閉じ籠もっていた殻は高校へ進んでからも破れることはなく、今もわたしは隙間から差し込む光に縋って生きている。もうわたしはわたしを特別だとは思わなくなった。世の中には周りと違うことを自認している人間がごまんといる。それが肥大した自意識の賜物なのか生来的なものなのかは分からないけれど、人は誰しもそれなりに生きづらさを抱えている。


 ときどきわたしの母校に通う学生のことを考える。彼らはまだ白い靴下を履いているだろうか。土埃は落ちないまま、汚れになる。